胸にひそめた、私的もののあはれ等。
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『おれはいつもつらゝゝ思ふのだ。およそ世の中に歴史といふものほどむつかしいことはない。元来人間の智慧は未来の事まで見透すことが出来ないから、過去のことを書いた歴史といふものに鑒みて将来をも推測せうといふのだが、しかるところこの肝腎の歴史が容易に信用せられないとは、実に困った次第ではないか。見なさい、幕府が倒れてから僅かに三十年しか経たないのに、この幕末の歴史をすら完全に伝へるものが一人もないではないか。それは当時の有様を目撃した故老もまだ生きて居るだらう。しかしながら、さういふ先生は、たいてい当時にあってでさえ、局面の内外表裏が理解なかった連中だ。それがどうして三十年の後からその頃の事情を書き伝へることが出来ようか。況やこれが今から十年も二十年も経て、その故老までが死んでしまった日には、どんな誤りを後世に伝へるかも知れない。歴史といふものは、実にむつかしいものさ。』


氷川清話  - 勝海舟  ( 江藤淳・松浦玲 編 講談社刊)  より





『昔と今って、繋がってる。私がよく申します。何のために歴史を勉強するの? 今日のことを勉強する。今日の事を勉強するために、歴史を勉強しないと、明日どうしていいか分からない。それが歴史なんですね。』


 「城あれこれ」 -  杉谷昭   (佐賀城本丸歴史館  寺子屋講話より 若い人へ向けての言)

今日ちと調べ物をしに図書館へ。
古里の歴史を、古代から江戸、明治から昭和と見ていくと、
あーやっぱり。大変。享保の大飢饉から、子年の台風、疫病。

 歴史は古代に遡る事のできる三日月地域。地理的に米の生産力は低い。旧千葉家領。佐賀藩政下においては二重鎖国体制であり、且つ小城藩(支藩)による二重支配があり、税率は二公一民(稼ぎの2/3が税に取られる)。大地主が永続的に土地を所有していて、小作率が県内でも高かった。農民は生かさず殺さず、かつ信仰も村のレクリエーションにも干渉を受けるこの不自由さでは、とても【貧しくとも活き活きとした生活】があったとは想像ができない。ここに網野史観をどう踏まえようか。たしかに、酒や豆腐の密造と売買があったとされるが、副業してもぎりぎりの線ではないか。活き活き、というより必死な気がする。現に県内で8万人が死亡した大飢饉や、平時くりかえされる不作、流行病。「消極的な自衛策としての、口減らし」の文字。この頃の御先祖は何を思うて日々生きていたのであろうか。

 人口は江戸時代~明治期に横ばい、もしくは減少傾向。メインストリート(宿場)あたりに居住していたのが先祖で、明治14年の村の人口が5564、戸数1374戸、90%が農業従事者という統計を見るに(「肥前国小城郡村誌」)、そのうちまず6人位、戸数では3戸程に心当たりが有るのであって、少なくとも村の0.1%、1000人に一人は御先祖様ということになる。同時にこれは、他人の御先祖様でもある。ここで「郷士」という言葉を知る。となると当時村の人口の0.1%以上に郷士が存在したのであって、形骸化したお侍さんも必死に村で農業を営んでいた。我が家の姻戚は皆、郷士に類する。なるほど同じ立場同士で婚姻している。

 明治に入っても、暮らしぶりは良くならず。
明治10年代後半、松方デフレの下、米価暴落、身代売りや土地の質入れ、納税滞納者が続出。
明治22年の市町村制成立のころ、土木事業や消防衛生などはほとんど住民負担。
おおまかに言うと、もう昭和まで殆ど慢性的な不況。昭和6年の大不況時代には、『今日では想像できぬ困窮ぶり』と記載がある。(「三日月町史」)

 歴史のミニマムは、家族の歴史だと私は論ずるが、
こうやって長い長い過去の歴史に照らし合わせていくと、我が家に通底して来た「暗さ」「じめじめ感」の所以が紐解ける気がする。こんな状態が何百年延々と続いて居れば、血族の精神文化は殻に閉じこもらざるを得ないのではないか。そうして、この様に理解して行く作業は同時に、前向きな、鎮魂の儀式でもある。内田樹が論じる所。

 明治時代に兼業農家になっている我が家、最古のエピソードは佐賀の役。
大地町の旧道沿いに今も、昔我が家だった家屋が存在している。この宿場町通りを明治7年(1874年)、佐賀方面へ向かう官軍の一団が通り過ぎる。『賊に加担していないことを示すために』近所と示し合わせて雨戸を閉め切り、家の奥に一家で小さくなり、じっとしていた、非常に怖かったと、当時子供だった曾々祖父が語ったそうだ。

 大正期に商店を起業、米の仲買いに、金融業をやったりして昭和初期には完全な成金の体を成した曾祖父は(小城の三大スケベ)と呼ばれた。祇園神社すぐ近くの焼鳥屋『大吉』(ここ数年で閉店)は、曾祖父から父まで3代通った焼鳥屋であり、成金時代に豪遊する曾祖父のことを大将はよく覚えて居たという。

 愛人の一人で、最も親密であったのが、小城公園入り口のすぐ脇にあった料亭「菊屋」の女将、お菊さん。この女性が家まで迎えに来ていたのを、曾祖母は黙って、亭主を遣って居たそうな。
典型的なろくでなしの九州男児のダンナ。(笑) この方、曾祖父の葬式にも見えられたという。粋というか、何と言うべきか。

 この頃の帳簿や、何らかの祝い事の御祝儀帳みたいなものが多数残っていた。「晴気村 何々衛門  米一俵」など、ひとから頂いたものを延々を列記して有った。往時の家の勢いが忍ばれる、まるで着到帳のような巻き物であったが、父が、数年前、古文書のすべてを庭で焼した。父にとって家の記憶は、「負」でしかなかったようで、この成金時代も、終戦後まもなく餅米の先物取引に失敗、その借金のために家財から三日月に散在所有していた土地のほぼ全てを売り払った。(売買契約書が現存していた。)ほかにも、曾祖父の兄弟や子供が皆揃って、遺産の相続権放棄の旨をしたためた書が残っていた。これにより最早財産より借金が多かったことが推測され、その借金返済は祖父の代まで続く。 長らく父方の親戚がよりつかない本家となった理由はこれであろう。

 たしかに後年は「負の歴史」でしかなかったであろうが、私としては負の歴史の記録をこそ、保存して置いて欲しかった。現物もじっくり見た事がある。庭で灰になったものを眺めたが、臭いものに蓋をするような安易な解法を、息子の私は激しく憎んだ。過去から逃げることに、何の意味があるのか。無知蒙昧の悲しさをしみじみ思った。

 江戸時代~明治期~昭和期での家族ドラマは調べれば誰にでも有るはずで、このひとりひとりのパーソナルな歴史が集合すると、町の歴史、市の歴史、県の歴史、国の歴史になる。

 なぜ歴史を学ぶのか。この難しい問いに対し姜尚中氏は、『ラジオ版・学問のススメ (Podcast)』の談話の中で、『歴史を知ると、安心して悩める。』と語った。本当にその通りだと思う。人間の感情の有様、というものは、例えば、司馬遷が史記で「これ真なり」と態々強調している件りを見ても、古えから現代まで、さほど変わっていない。(悩ましい事であるが。)その変わっていない有様を知るにつけ、変わりゆく時代の中で多少の苦境にあっても、我々は「安心して悩める」。

 私は、歴史を学ぶ効用は、「身の丈が分かる、身の代が分かる」ことだと思っている。個人の一生という物の付加価値が、なんとなく見えてくる。加えては思考訓練にもなる。
 
 今、の時間は刻々変容し追うに追いつけないが、歴史は動かぬ。じっくり追えるし、そこから自分なりの法則や倫理哲学を抽出できる。

 歴史に向き合うひとの姿勢は大まかに2パターンだと思う。1には、研究型。2には物語型。1では、事実・真実を追う事がなにより大事であるので、根拠の無い論説は許されない。非生産的でいて、実は生産的。2では、歴史は物語であるので、根拠はどうでも良い。そもそも何が事実か、昔の事は分からないじゃないか、あるのは解釈だけじゃないか、という極論もこれに含み、生産的でいて、実は非生産的。私個人は、1と2の中間。極力調べて事実に近いものを知りたいが、物語りも大事にしたい。餡子も大事だが、餅皮のふんわり感も、大事なのである。両者揃って初めて餡子餅であり、餡子だけの餅は、ただの餡子である。どうしても皮が必然的に発生し、包むのである。 

とは言え、この(物語メイン)の発言は今も度々、トラブルを引き起こすから困る。理性と感情が対立する構図は、古今一向に解消されない。


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【2011/08/08 01:21】 | セルフヘルプ
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