胸にひそめた、私的もののあはれ等。
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與止日女神社についてです。

與止日女神社 HP
欽明天皇25年(564)創祀
肥前国一ノ宮
弘長元年(1261)正一位。

朝廷の御崇敬あり、また鎌倉幕府をはじめ
武門、領主、藩主の尊信を受けた。明治4年県社に列す。
別名・河上神社、俗に「淀姫さん」とも呼ばれている。


佐賀の歴史が好きな人にとっては文献でたまにみかける、河上宮です。

で、こないだ行って偶然知ったんだけど、2014年に、建立1450年記念大祭が盛大に開催されるそうで、絵馬の奉納を募集されています。HPの絵馬募集参照。

つまり、1800年代前半に建築された現・拝殿が約200年ぶりに改装されるにあたり、天井に平安絵巻的な絵柄の絵馬を276枚、敷き詰めます、と。

それで、奉納してくれた方については、御住所と名前を書き込んで天井に飾りますので、未来に渡り、数百年、お名前と志が拝殿の天井に残りますよ、という趣旨。


私が思うに、歴史が好きな人や地元人などでは無い限り、一般的にこの與止日女神社がどんだけ古くて偉い神社か、認識しようも無いはずなので、知る者の弱み、と申しますか、集まりも良くないだろうしと察し、進んで一金2万円、直接、絵馬料奉納して参りました。案の定、社務所の方が仰るに、276枚のうち、まだ50枚は募集中との事で、今年一杯をめどに考えているそうです。
(遠方から多数申し込みがありました、と仰ってたので、やはりそれは地元出身の富裕層か、もしくは千葉家・龍造寺家・鍋島家縁故の方かと)


所縁のあるという方々、どうでしょう?絵馬の奉納、ご検討されては。

私個人は地元への恩返し+地元の歴史(河上宮には間違いなく参った事があるであろう、私の先祖の累代への敬意)+地元の未来への前向きな祈り を込めて奉納しました。

問い合わせはHPの電話にかけると、社務所の方が応対してくれます。

御話を伺ったら、やはりこれだけの由緒があって、現在のさびれ方は悲しいので、もっと往時の隆盛を取り戻したい由。たしかに、さびれてるんで(苦笑)なんとか応援したいものです。


というわけで、同心のお誘いでした。(笑) 我ながら物好きな事です。
ちなみに宗教に傾倒している訳ではありません。尊びますが、アグノスティックですので、あしからず。






↓↓参考資料です。御一族の方にとっては、御先祖の歴史に纏わるお話ですね。


『所領安堵・知行宛行等

■歴応3年 千葉胤泰→河上神社 【於喜郡田地4町】 寄進
■歴応4年 千葉胤泰→河上神社 【於喜郡田地5町】 寄進
■嘉吉3年 千葉胤紹→河上山座主防(実相院+河上宮管理者) 
【佐嘉郡高木内神野村仏性田30町】 安堵 ・・・  (中略)

 応永7年2月に100年間途絶えていた河上社の祭礼を再興したのは千葉氏と考えられる。
同年2月25日付の「河上社御遷宮併五八両会之儀式目録」では千葉氏代として「座主権律師増鍐」と「鍵尼季高」が連書している。この河上社の神事祭礼を主宰するということ自体が国衙の運営となるが、ここで、流鏑馬射手・辻固・頓宮殿警固に高木氏以下の肥前国内の武士が動員されている。千葉氏はその権限を得たといえよう。

 またこの祭礼の費用は肥前一国に「段銭」として賦課されるものであった。鎌倉期には幕府や鎮西探題により命じられており、千葉氏は「段銭」賦課権を得たといえる。さらに、肥前国一宮河上社の神事祭礼を主宰することは、この実利的な側面と同時に、地域の平和・秩序を維持するものとしての千葉氏の可視的表現となる
 
 ここで注目すべきは嘉慶2年(1388)前後と考えられる胤泰の書状である。筑前国の筥崎宮造営段銭の肥前国への賦課に対して、「肥前国は河上宮の費用を出す国であり、他社への寄付は先例がない」と答えていることである。国内諸階層を纏めて、河上社に再結集させる意図が明確に感じられる。   

/ 中世肥前千葉氏の足跡~小京都小城の源流~ 編集:肥前千葉氏調査委員会
発行:佐賀県小城市教育委員会 H23 3/31 初刊   より抜粋』





『天文14年(1545)正月23日、この清冽な川上の水辺で悲惨な合戦が行われた。

(流れを要約) 

田手畷の戦い→4年後 少弐資元は龍造寺家兼(剛忠)のすすめで、大内氏と和議 

→2年後、陶興房(大内家家老)に攻め立てられ、少弐資元は多久で自害

→後継・小弐冬尚は父の死について、大内氏への家兼の内通を疑っている。加えて、少弐の家老であり、龍造寺の隆盛を快く思わない馬場頼周の讒言で、憎しみが増す。

→天文13年(1544)11月下旬、少弐家の反龍造寺氏勢力が策を廻らせ、わざと龍造寺氏の軍勢を各方面に分散して出撃させる。家兼は91歳にて村中城に居たが、一族のほとんどは出陣し、一門に多数の戦死者を出し、天文14年正月に敗残兵が引き揚げて来る。

→弱らせたところで、少弐軍2万が村中城を包囲。急な展開に龍造寺一門は開城。

→剛忠は筑後へ落ち逃れた。その子、家純、家門や孫の純家らは、馬場の誘導で筑前へ向かう。

→剛忠の孫の周家、頼純、家泰らは、筑前に去るまえに少弐冬尚に一門の潔白を陳弁するため、城原の勢福寺城へ向かう。


■家純一行、30余名は、與止日女神社に夜営。そこに予て示し合わせた神代勝利勢+馬場頼周勢が夜襲をかける。

・周囲はすでに敵に囲まれていた。馬場頼周の子六郎政員が指揮する300余騎の襲撃である。焚松の火が消え、剣が閃いた。家純はじめ龍造寺の者たちは謀られたことを知り、憤激して敵に斬りつけ、暗夜の中で凄まじい死闘を演じた。だが、多数の敵勢に囲まれ家純、家門兄弟は戦死、家人従者たちもほとんど倒れていった。家純の子純家は拝殿に駆け入ると指を切り、流れる血汐で社殿の扉に、

山遠雲埋行客跡(山は遠くして雲は行客の跡を埋め) 松寒風破旅人夢(松は寒くして風は旅人の夢を破る)

と書きつけ、敵中に斬り込んで壮烈な最期をとげた。この詩は和漢朗詠集・雲の部に見える平安時代の詩人紀斎名の作といわれるが、この詩のように、これから他国へ去ろうとしている旅人の夢を驚かせるには、あまりにも無情の風であった。純家は日ごろ書をよくし、詩文にも長じていたので、最後の筆跡をこの世に残しておきたかったのであろう。與止日女神社はこの乱闘で破壊されている。なお、川上で討たれた龍造寺一門の死骸は、戦後小弐勢によって片付けられ、神域に付着した血汐も川上川の水で洗い清められたという。
/ 九州の古戦場を歩く・【川上、祇園原の惨劇】 吉永正春著 H6.4月刊 葦書房『所領安堵・知行宛行等 』


與止日女神社西門 解説

↓宮、西門棟木写(かっこ内は註釈)
  
奉造立肥前国第一宮河上淀姫大明神西ノ門一宇
  
大宮司 千葉別駕平胤連
  座主兼執行權少僧都増悦
  大檀那立
  龍造寺太郎四郎藤原鎭賢(政家)
  神代刑部大輔武邊長良(勝利の嫡男)
 
願主 蓮乗院増純
元亀四歳癸酉三月吉祥日

(豪華すぎる連名・・)

右の文書によれば西の門は大和町内で最も古い建物であることがわかる。

西門はほとんど、1573年創建当時の姿のまま。戦国時代の生き証人です。


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【2012/07/26 20:30】 | 歴史のこと
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