胸にひそめた、私的もののあはれ等。
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『柳田(國男)が記述しようとしたのは『遠野物語』で語られた神秘的な出来事が「事実」である、という主張ではなく、そのような物語が現に人々によって語られているという「事実」なのである。

 明治四〇年前後、怪談の時代はそのようにして「事実」あるいは「現実」の領域が確定していく時代であった。僕の民俗学上の師の一人である宮田登は、いわゆる「世間話」の中には近代化の軋轢の中で生じたものが多数ある、と指摘している。旧「現実」であった民俗的社会が急速な西欧化と国民国家という新しい「現実」に組み換えられる時、その二つの「現実」の乖離を埋めるべく「世間話」というテキストが語られるのだ、という。

 ぼくは「昔」は確かな「現実」があり、ネットやコンピュータゲームの普及でその「現実」が仮想化して、揺らいだ、などとは全く思わない。「現実」というものは常に揺らぎ、そして「更新」されていく質のものだ。「怪談」にせよ、今日では都市伝説の名の方が通りがよくなってしまったにせよ、それらのテキストが常に虚実の境界線上に成立するのは、それが「現実」の輪郭を描き出すために機能するからだ。』





/ 「巷説百物語」 京極夏彦 角川文庫   解説:大塚英志(P.516)より




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【2012/09/17 10:36】 | 文学
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