胸にひそめた、私的もののあはれ等。
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 (H14の卒業論文より。僭越ながら、これからこの作品を研究する方々の、一助にならんことを願う。)


 太宰治の『ヴィヨンの妻』。

初出は、筑摩書房発行の月刊総合雑誌「展望」3月号、昭和22年3月1日付発行の、92頁~115頁「小説」欄に収載である。「展望」は昭和20年の12月25日に創刊号が発行され、戦後の創刊雑誌としては、「新生」(総合雑誌、昭和20年11月創刊、新生社発行)に次いで2番目であった。それから昭和26年9月までの69冊が第一次発行で、第二次は昭和39年10月~昭和53年8月(167冊の、通巻236号)である。

 第一次の編集者は臼井吉見で、後に加わった唐木順三、中村光夫らと合議しつつ「自分の作りたい雑誌、自分の読みたい雑誌をつくりゃいいんだ」という強いポリシーを貫き、単行本と雑誌の中間的性格を示す意欲的な編集を続けた。この「展望」への『ヴィヨンの妻』の発表に関して、以下に挙げる太宰の書簡に、執筆経緯と注釈を見ることができる。


 『一二月頃から「展望」の百枚くらゐの力作小説に取りかかるつもりです。田舎にゐると、周囲が陰ウツですから、暗いものばかり書くやうになります。』

 昭和21年10月24日、青森県金木町、津島文治方より、東京都目黒区緑ヶ丘2321、伊馬春部宛のはがきの一部。
 次に、

 『毎日たいへん疲れて、それにお客がずゐぶん多くて、小田原へおたづねするのも、ついのびのびになつてゐるのです。きのふから「ヴイヨンの妻」といふ百枚見当の小説にとりかかつてゐます。一月十五日までに書き上げなければならず(展望といふ雑誌)いま近くに仕事部屋を借りて仕事をしてゐます。もし東京へ出かけられる時があつたら、ついでにお寄りしてみませんか。』

 昭和21年12月(日付不詳)、東京都下三鷹町下連雀113より、神奈川県足柄下郡下曽我村原、大雄山荘、太田静子宛の手紙の一部。
 更に、

 『拝復 「父」はそんなにほめていただける作品でないんです。「父」を読んで下さつたら、ついでに、ぜひ、「ヴイヨンの妻」といふのを読んで下さらなくてはいけません。「ヴイヨンの妻」は、「展望」三月号に載つてゐます。「父」と一脈通じたところもありますが、本気に「小説」を書かうとして書いたものです。終戦後、私の小説のうちで一ばん長い小説です。展望はもう出てゐますから、何とか入手して読んでみて下さい。』

 昭和22年4月30日、東京都下三鷹町下連雀113より、東京都目黒区緑ヶ丘2321、高崎英雄(伊馬春部)宛はがきの一部で。(以上3通の書簡は、『太宰治全集11巻』筑摩書房、1991年3月発行を参照。)

 
 まず、1通目の伊馬春部宛の書簡については、青森県金木町は太宰の実家がある所で、津島文治は、本名が津島修治である太宰治の長兄に当たる。度々太宰の作品中にも描かれ、当時衆議院議員であった。昭和21年10月24日当時の太宰は、終戦後未だ実家に疎開滞在中であり、3日後の10月27日に祖母イシ(同年7月4日死去)の、東京から帰郷する長兄を待った後での遅れた葬儀を控えていた。「周囲が陰ウツ」とはこの状況の為であろう。

 この時点に於いて太宰は『力作小説を書く』と発言している事から、作品の構想は有ったものと伺える。そしてこの葬儀が終われば、太宰は東京に移住することにしていた。同年11月14日に上京、妻子と共に住む東京都北多摩郡三鷹町下連雀113の家とは別に。三鷹町下連雀306の中鉢運作宅に、11月25日から仕事部屋を借りて、弁当を持って通い、朝10時ごろから午後3時頃まで執筆をした。

 2通目に挙げた太田静子宛昭和21年12月頃の書簡の内容が、この状況と一致する。即ち『ヴィヨンの妻』は、この仕事部屋で執筆され、同年12月頃から翌昭和22年1月15日頃に書きあげられたものと考えられる。


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【2013/04/03 23:27】 | 太宰治『ヴィヨンの妻』研究 -現代への視点と解釈-
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